ファンレター受付中♥
- 2009/10/02(金) 20:30:48
は〜い♥
女子高生のアイドル、ヴォランドくんですよ〜 ♥
みんな元気?
イロイロとバタバタしている間にまた「アホ」のブログが更新されていますね!
相変わらず○○ですね。
ケケケ!
愛するみなさまには御無沙汰してしまいましたが、
ぼくはいつでもあなたのそばにいますよ!
全国1000万人のヴォランドファンの女子高生のみなさま!
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ぢゃあまた〜!
地上に落ちた神が求めるもの
- 2009/09/30(水) 19:39:44
全国の賢明な女子高生の皆さまはもうお分かりですね。
「大昔のこと、人の願いがまだ叶ったころ、一人の王様が住んでいた。」
これはあなたのことです。
これは、胎児であった頃のあなたのことを言っているのですね。
そうです、我々は皆そこに居たのです。
我々は皆、母親の子宮の中で暮らしていたときには、全ての願いが叶い、
我々は皆「王様」でありました。
たびたび引用して恐縮ですが、本ブログではおなじみの岸田秀先生は、
『ものぐさ精神分析』という著書の中で、以下のようなコトを書いておられます。
わたしは、自分の考え方がどの立場に立っているか、誰の理論に近いか遠いかということをいっさい抜きにして、勝手に私のナルチシズムの概念を述べることにする。
まず、ナルチシズムは人間に特有の現象であり、感覚運動器官がきわめて
未熟な状態で生まれてくるという人類の特異な生物学的条件に由来すると
思う。生まれおちたとき、人間の幼児は、現実を知らず、対象を認識でき
ない。現実と非現実(幻想)の区別、自己と対象の区別は存在しない。
あるいは、現実は非現実の、対象は自己のなかに含まれ、渾然一体となって不分明な全体を形成していると言ってもよい。この状態が、ほとんどそのままの形で、生後ほぼ一年間つづく(不完全な形では、ある意味で一生つづくと言える)。
長期にわたってこの状態がつづく結果、人間の衝動生活と人格構造に、永久に消えない特殊な歪みが生ずる。すなわち、人間においては、そのナルチドー(=略=個体保存本能のエネルギー)は、まずはじめに、(=略=)
自己と結びつく。本来なら、現実的自己(以下、現実我と呼ぶ)の保存の為ために使われるべきであるナルチドーが、非現実的自己(以下、幻想我と呼ぶ)の保存の方向へ逸脱する。わたしは、ナルチシズムを、幻想我の保存にナルチドーが向けられている状態であると定義する。(=略=)
まだ現実を知らない幻想の世界における、対象と区別されていない自己は、現実的諸条件に制約されていないから、あらゆることが可能である。つまり、全能である。また、知っていないことの存在を知らないのだから、全知である。また、対象の存在、他者の存在によって限定されていないから、この自己は、無限に開かれた世界のいたるところに偏在する唯一無二の存在である。要するに、それは、神の原型である。
「ナルチシズム論」p.p.304
ナルチシズムの起源を論じる中で、岸田先生は「胎児の全能感」について触れ、
それを「神の原型」とまで言っておられます。
岸田先生の独自の考察は、直感的なイメージではとても良く分かるので、
ジャンルカさんはひとり納得することが多いのです。
岸田先生の考察を読むと、前稿で書いた浦島太郎の「子宮回帰願望」話も、
あながち外れた話でもないと思ったりもします。
そして前後の小品では、産まれたあとの「神」である赤ん坊の精神的葛藤から、
ナルチシズムと、そのナルチシズムの投影であるフェティシズムについて以下の
ようなことを言っておられます。
しかし、人間の幼児は遅かれ早かれ、不本意ながらも現実を発見することになる。人間にとって、現実とは、ますはじめ、おのれの全知全能を傷つけ憎むべきもの、否認したいものとして現れてくる。幻想我とくらべて、現実我はなんと無力でみじめで、限られた存在であろうか。だが、現実は否認しようもない。
(中略)
すでに述べたように、ナルチシズムは、自己と対象の区別が成立する以前に形成されたものであるから、自己と対象の混同をその本質的条件の一つとして含んでいる。幻想我は容易に他者と混同される。この条件を利用して、
幻想我と現実我の葛藤を解決する方法もある。対象を幻想我と同一視し、
対象にナルチシズムを投影するのである。
「ナルチシズム論」p.p.305-308
フェティシズムは、個人が口唇反抗期から肛門期に進むのに失敗した場合に形成されるとわたしは考えている。その失敗の結果、個人は、それ以前の段階、すなわち口唇崇拝期に退行する。そして、全能の自己、つまりナルチシズムをふたたび母親に投影しようとする。だが、母親はすでに落ちた偶像であり、その全能性は否定されているので、この試みは成功しない。ナルチシズムは、自分のうちにも対象のうちにも落ち着き場所がなく、宙ぶらりんとなる。そこから生じる抑鬱が耐えがたいので、個人は何とかナルチシズムを投影できる対象を必死になって求める。そして、ついに個人が人間ではなく何かの事物にナルチシズムを投影したとき、この事物がフェティッシュである。つまり、フェティッシュは、個人にとって、全能の自己の象徴となる。個人がこの状態にあるとき、第一次思春期がはじまり、何らかの形でリビドーが刺激され、ある種の性的満足を得ると、この状態がのちの性的満足の原型となる。これが性倒錯としてのフェティシズムの起源である。
(中略)
ナルチシズムを異性に投影すれば、そこから恋愛関係がめばえてくるのだが、性倒錯者としてのおとなのフェティシストは、前述の子どものような人格構造から脱却できず、その発達段階に停滞し、事物にナルチシズムを投影する傾向をもちつづけ、かつ、そういう方法によってしかリビドーの満足を得ることができない者である。
「性の倒錯とタブー」p.p.119-121
むふふふふ...
グリム童話をよんでフェティシズムの起源に思いを馳せるワタクシ...。
ということで、次回はフェティシズムについて書いてみようかしらん。
(長い前フリ)
幸あれ。聖なる光よ。天が始めに生みし子よ。
ミルトン
もしも願いが叶うなら
- 2009/09/27(日) 19:17:21
「大昔のこと、人の願いがまだ叶ったころ、一人の王様が住んでいた。」
みなさま大好きなグリム童話、『蛙の王様』の冒頭の書き出し部分です。
素敵な文章ですね。
「大昔には人の願いが叶う時代があったんだ..。いいなあぁ〜。」
と、思わず素朴な時代の人々のささやかな願いを思い浮かべて、ロマンチックな
優しい気持ちになったりします。
大量の情報に囲まれて育ち、生活の隅々まで市場経済原則に浸されている現代に
暮らす我々にとっては、すでに知ってしまったことが多すぎて、現代は素朴な
「夢」や「願い」を抱きずらい時代であると言われたりしますね。
ところがあるのです。
あなたにも僕にも。
そんな「願いの叶う」世界が。
「大昔のこと、人の願いがまだ叶ったころ、一人の王様が住んでいた。」
これは現実なのです。
誰もが経験する現実のコトなのですよ!
フフフフフ...、そこの愛知県の女子高生....。
「あ〜あ、またジャンルカさんは頭がおかしくなっちゃったのかしら?」
と思っているでしょう。
それも否定すまい。
なぜなら、ジャンルカさんはそこんじょそこらの変態ではないからです。
うひょひょひょひょ!
グリム童話で妄想できる変態だと思われても仕方あるまい、なぜなら(以下略)。
ジャンルカさんは物語が好きなのですよ。
世界各地の民話、説話、寓話の中に、お話のパターンがよく似ているものがありますよね。全く交流の無い知らない土地に住む人々の間に、どうして似たようなお話が語り継がれたのでしょうか?そうしたお話の中には、「人間」の根底的な願いや要求が潜んでいるのかもしれません。
世界各地のお話を集めて比較分類する「物語の類型論」と学問があります。
日本では民族学の分野で仕事をされた、柳田國男先生や、折口信夫先生といった方々の研究があり、折口先生が論じた「貴種流離譚」といった概念は有名ですね。
物語に潜む「人間」の根底的な願いや要求という点については、
河合隼雄先生がユング心理学の観点から昔話や物語を解説した
『昔話の深層』『昔話と日本人の心』といった著作を残されています。
こちらも面白い。
みなさま御存知の「浦島太郎」のお話。
誰に聞いたのか忘れましたが、このお話は「子宮回帰願望」のお話であるという説があります。あまりに有名なお話なので、ここでは繰り返しませんが、
「竜宮城」は「子宮」の象徴。「海」は「羊水」。
そこにたどり着くには、浦島太郎は「亀」に乗っていかなければならない。
お分かりですね(笑)。
竜宮城で3年間遊び暮らした浦島太郎が地上に戻ると、そこでは3百年の歳月が過ぎていた。途方に暮れた浦島太郎が玉手箱を空けると、立ちのぼる煙とともにたちまちおじいさんになってしまう。
これは、産まれ出た赤ん坊が感じる感覚を表現しているというのです。
まあ、浦島太郎のお話=「子宮回帰願望」説は、よく出来た酒飲み話に過ぎないかもしれませんが、それなりに納得できる理屈となっていて面白いですね。
..... また、前フリが長くなりました。
それでは、「願いが叶う」世界へみなさまをお連れいたしましょう。
(つづく)
世界は一冊の書物に至るために作られている。
マラルメ
BDSMは趣味である!
- 2009/09/20(日) 23:45:28
みなさまこんばんわ!
世界の罪を全て背負っているジャンルカさんがきましたよ!
「自分の深い気持ち」で生きるのは決して恥ずべきことではありません。
きっと世界はみんなに優しく出来ている。
愛の伝道師、電動コケシのジャンルカです。
先日のとある女王様との会話。
「私の知っている女王様でM男と結婚したあと、子供ができると、女性は家庭のことが中心になるけど 男の人は外でフラフラとSMしているという話をよく聞くのよ。
男の人はいいわよね〜。」
とのこと。
これは現実にありうる話ですよね。
逆に、女王様&M男性のカップルで、奥様が旦那とはプレイをしないが、外に奴隷を飼っているというケースも聞いたことがあります。しかし、これが問題だという話はあまり聞いたことがありません。
M旦那の皆様はそれを耐えているのか? それを許容しているのか?
それでね、お酒を飲んでいる時にふと思ったのですよ。
BDSMは趣味であると!
たとえば、旦那が釣りを好きであったり、奥様がコーラスが趣味であるのと一緒で、
旦那も奥様もBDSMが趣味だと理解すれば、これは丸くおさまるのではないか?
「うちの旦那は釣りが好きで、毎週出かけているのですわよ〜」
という会話と同じで、
「うちの旦那はSMが好きで、毎週出かけているのですわよ〜」
という会話が成立してもよいのではないか?
趣味は余暇の活動ですからね。
家庭生活とか、愛とかセックスとも無関係。
敢えて言おう。
BDSMは趣味である!
(こんなこと言うと多方面から怒られる可能性あるワタクシ)
わかるかな〜。わかんねえだろうな〜。
松鶴家 千とせ

